正直になろうよ

JANOG20で印象的だったのは、IPv4枯渇問題に真摯に取り組んでいる前村さんに向かって「嘘をついてはいけない」と淡々と語ったRandy Bushさん。(前村さんはスケープゴートにされただけですね)
前村さんが紹介していたものをリバイスしたものだろうが、Randyさん自身がNANOG MLで"IPv6 Transition & Operational Reality"を紹介していたので、入手し読んでみた。正しい! こういう正直な分析と姿勢が大切なんだと思う。

11/23追記: NANOG41(10/16)でのRandy Bushのプレゼン(スライド,ビデオあり):http://www.nanog.org/mtg-0710/bush.html

せっかく良い問題提起があったのに、前村さんのセッションはあまりに短かすぎた。どこかでRandyさんも交えて続きをお願いしたいなぁとつぶやいてみる。

私はIPv6否定論者ではない。ただ、ぼろぼろのIPv4に寄生しながら、徐々にとって変わろうというのは無理だし欺瞞でしかない。嘘や、無理や、過剰宣伝はやめて、これまでのインターネットのあり方をリフレクション(反省)し、真摯にインターネットとはなんであるかを人々に説き、人々がインターネットの哲学を共有できたとき、IPv6の出番もあるんじゃないかな。それまでは、哲学を共有できる人たちの輪をひっそり広げていけばいい。IPv4インターネットがそうであったように。決してIPv4に強引に乗りかかってはいけない。いっしょに沈んでしまうでしょ。
追記:それとも、哲学や真実なんてどうでもいいからビジネスしたい、ってのが正直な気持ちなのかなぁ、、、(早晩マーケットがつぶれても?)
アーキテクチャ再考へ続く...

アーキテクチャ再考

正直になろうよに続く)
そして、インターネットをリフレクションするといえば、河野さんプロデュースのパネル。インターネットの再定義に果敢に望もうとした素晴らしいパネルだったと思う(河野さんのブログ参照)。だが、革新的なアーキテクチャの差し替えは必要だろうか。いや、可能だろうか。インターネットは奇跡だったと思う。インターネットの思想を皆が共有し、そのミーム(思想)が大きく膨らんできた。しかし気がついた時には、ミームはどこかへ行ってしまい、その抜け殻だけが水死体のように膨らんでしまっていた。
インターネットのミームは悪いミームだったのか。いや、インターネットをこれまで推進してきた人たちは、途中から思想よりも技術を広めることだけにやっきになってしまったのである。地域でインターネットの啓蒙に取り組んできた私自身、これは大いに反省するしかない。インターネットのミームは良いミームであると今でも思う。イリイチが説いたConvivialityの思想は素晴らしい。それを具現化するtoolとしてインターネットは広がってきた。思想の誤りでも、技術、アーキテクチャの誤りでもない。誤りなのはあるときから、思想抜きに技術だけをばらまいてしまったことにある。
今必要なのは新しいRFCを書くことでも無く、コードを書くことでも無い。人々にインターネットとはなんであったのかをあらためて語ってまわり、また人々と共に再考してみることである。
End-to-End原則は正しい。問題はどこにEndを置くかという問題に帰着できるのではないだろうか。End-to-End, Stupid Networkの大前提は、EndがIntelligentであることである。しかし、これまでISPたちはStupid/土管に徹し、インターネットが何であるかの説明もしないまま、インターネットというコミュニティへの参加責任を顧客にすべて押し付けてきた。いまやるべきはアーキテクチャ再考以前に、Endの再考である。
例えば賛否両論の中、広がりつつあるOP25BはEnd-to-Endの崩壊ではない。EndをISPに引き上げたにすぎない。これは従来、企業や大学では当たり前にやってきたことである。ISPが一部責任を引き受けたという意味では画期的なことであり、むしろ遅きに失したといってもいい。一方で責任をもってEndであらんとする人々にはStupidなネットワークへの接続を提供することがインターネットの一員であるISPの使命であろう。これは矛盾することではないが、なぜかOP25Bの議論ではこれがまぜこぜにされてしまっている感がある。
また何かと法律を盾にする向きもあるが、これは甘えである。法律なんて変えればいいだけ。大切なのは思想と人々の幸せであって、技術や法律ではない。
大体、いつからインターネットは通信事業あるいはインフラになったのだろう。壮大なる実験ネットワークじゃなかったのかなぁ。誰か実験やめましたって宣言した?