アーキテクチャ再考

正直になろうよに続く)
そして、インターネットをリフレクションするといえば、河野さんプロデュースのパネル。インターネットの再定義に果敢に望もうとした素晴らしいパネルだったと思う(河野さんのブログ参照)。だが、革新的なアーキテクチャの差し替えは必要だろうか。いや、可能だろうか。インターネットは奇跡だったと思う。インターネットの思想を皆が共有し、そのミーム(思想)が大きく膨らんできた。しかし気がついた時には、ミームはどこかへ行ってしまい、その抜け殻だけが水死体のように膨らんでしまっていた。
インターネットのミームは悪いミームだったのか。いや、インターネットをこれまで推進してきた人たちは、途中から思想よりも技術を広めることだけにやっきになってしまったのである。地域でインターネットの啓蒙に取り組んできた私自身、これは大いに反省するしかない。インターネットのミームは良いミームであると今でも思う。イリイチが説いたConvivialityの思想は素晴らしい。それを具現化するtoolとしてインターネットは広がってきた。思想の誤りでも、技術、アーキテクチャの誤りでもない。誤りなのはあるときから、思想抜きに技術だけをばらまいてしまったことにある。
今必要なのは新しいRFCを書くことでも無く、コードを書くことでも無い。人々にインターネットとはなんであったのかをあらためて語ってまわり、また人々と共に再考してみることである。
End-to-End原則は正しい。問題はどこにEndを置くかという問題に帰着できるのではないだろうか。End-to-End, Stupid Networkの大前提は、EndがIntelligentであることである。しかし、これまでISPたちはStupid/土管に徹し、インターネットが何であるかの説明もしないまま、インターネットというコミュニティへの参加責任を顧客にすべて押し付けてきた。いまやるべきはアーキテクチャ再考以前に、Endの再考である。
例えば賛否両論の中、広がりつつあるOP25BはEnd-to-Endの崩壊ではない。EndをISPに引き上げたにすぎない。これは従来、企業や大学では当たり前にやってきたことである。ISPが一部責任を引き受けたという意味では画期的なことであり、むしろ遅きに失したといってもいい。一方で責任をもってEndであらんとする人々にはStupidなネットワークへの接続を提供することがインターネットの一員であるISPの使命であろう。これは矛盾することではないが、なぜかOP25Bの議論ではこれがまぜこぜにされてしまっている感がある。
また何かと法律を盾にする向きもあるが、これは甘えである。法律なんて変えればいいだけ。大切なのは思想と人々の幸せであって、技術や法律ではない。
大体、いつからインターネットは通信事業あるいはインフラになったのだろう。壮大なる実験ネットワークじゃなかったのかなぁ。誰か実験やめましたって宣言した?