インターネットはなぜダメになったか

自律協調分散ネットワークとして The Internet は成長してきた。The Internet は Intelligent な End たちが Stupid Network で結ばれた World of Ends を構成していた。その End-to-End と呼ばれる世界において、End と End を結びつけるのは、End たちによる合意であり、その合意は国家や国連に委ねて定めらたものではなく、World of Ends 自身の自律によるものであった。ここで End とは狭義には通信プログラムあるいはそれが動いているコンピュータであるが、それを操作している人や組織まで包含したものとしてとらえておいたほうがいい。

かつて、多くの異機種のコンピュータ同士、データを交換することが困難であった時代が長くあった。1966年頃のある日ある男(たぶんロバート・テイラー)を中心に End が結びつき始めた。共通する通信手順に合意したもの同士がつながりあい、合意した共通フォーマットでデータを交換し始め、徐々にその結びつき、すなわちネットワークを広げていった。ここで重要なのは、合意し共有しあったのは、通信手順やデータフォーマット、あるいはプログラムなど明示的なものばかりではなく、暗黙的な了解、世界が広く繋がっていく夢であった。

世界をつないでいくためには相互の利害関係を乗り越えた調整が必要である。お互いの限りあるリソースを共有のリソースとして調整しあう必要があった。Endにおいては、相手のコンピュータリソースを考慮しつつやさしくデータを送りあった。エゴイスティックなデータの送り方をするものは時に Ends のコミュニティから警告を受け、行いを正さざるを得なかった。回線リソースを持つものたち(End-to-EndのToとしておこう)は、その経路や帯域やインターフェイスを調整、融通しあってきた。そこは必ずしもユートピアだったわけでもなく、丁々発止、睨みあい、腹の探り合い、奪い合いの調整もあった。しかし最後は世界が繋がることが相互の利益であり、自らが折れ、血を流し涙を飲んでも合意を形成し、繋がる努力を先人たちは行ってきた。エゴを乗り越え、最低限のルールを守り自律的、協調的に振る舞わないことには、世界とデータの交換をすることはできなかった。
そして重要なことは、そうしないといけないことを皆が分かっていたということである。そして、EndもToも皆同様に合意の形成に努力を惜しまなかったことが世界を繋いできたのだと思う。

いつの頃からだろうか、合意形成というものが困難になってきた。世界がほぼ繋がったように思われ始めた頃からだろうか。世界を繋ぐことよりも自分の利益を優先させるようになり、それが自分の首を締めることに皆が気づかなくなったのだろうか。いざ合意って何だったんだろうと考えたとき、よく分からなくなったのかもしれない。
その頃には、World of Ends の Endたちは、The Internet が World of Ends であることを忘れてしまったようである。End-to-End の To を担う人々は ISP というビジネスに邁進し、自律すべきEndsをお客様として腫れ物のように扱い出した。Endsもお客様として我儘に振る舞い始めた。おかしな設定のサーバが溢れかえり、世界がだんだん繋がらなくなってきた。困ったEndsや、最初から何もわからない一部の Ends は Ends としての役割と責任を ISP たちに委ねるようになった。
一方で 委ねられたはずの ISP たちは、それでも自分たちは To であって End ではないと責任回避をするようになっていった。そのために ISP たちは自律を捨て、国に縛られたふりをして、自分たちが責任をとらなくてもよい立場に逃げ込んだ。電気通信事業者という立場である。そういう立場をとらないとアナーキーであった The Internet は国に潰されかねなかったのだから、やむを得ないことでもあったのだが、隠れキリシタンのごとく魂を守ることもしないまま、自律の精神を闇に葬ってしまった。
今でも ISP たちを To として見ると、そこには、まだまだ美しく自律の精神を守っている人たちがいる。尊敬すべき努力をして、The Internet が崩壊しないよう血の滲むような働きをしている。しかし、彼らは忘れている。The Internet を The Internet ならしめているのは自分たちではないことを。まるで自分たちが The Internet であるかのようでもある。自負は素晴らしいが、ISP は The Internet の主役ではない。主役は Ends である。そしてその Ends からその自律の精神を奪い取り(いや委ねられたふりをして)、自らも奪ったEndたちの持つべき精神を、その代理人となることもなく、通信の秘密だとか、検閲の禁止 を言い訳にして葬ってしまったのだ。合意を逸脱した通信を受信拒否する権利すらないかのような誤解も生まれ、Endが傍若無人に振る舞っても自浄作用が働かなくなってしまった。
Endsの信頼性にこそ委ねられるEnd-to-End Network たる The Internet の信頼性は、いくらToが頑張ってもどうにもならない。それに気づくでもなく、自律の回復を叫ぶでもなく、権力による管理にすがるしかなくなっているかのような状況が今まさに訪れている。

先の JPNIC「IPv4アドレス在庫枯渇問題に関する検討報告書(第一次)」をみても、Endsがないがしろにされていることがよくわかる。End-to-End の再来を夢見るはずの IPv6の推進を謳いつつ、彼らの報告書では、internet は事業者とユーザで描かれ、サーバは事業者の側にしかすでにないことに、皆気づいているだろうか、、、

p.s.
偉そうなこと書いてるなという向きもあるだろう。そんな美しい理想ははなっから幻想なのだよという声が聞こえてきそうだ。そう、言われるまでもなく、私自身、かなり前に幻想に気づいた。The Internet は崩壊するのではなく、私の中ではすでに崩壊している。
では、今「The Internetとよばれるもの」は一体なんなのだろう。存在しているように見えるのは幻なのか、、、そしてそれの幻はいつまで続き得るのだろう、、、

# 肝心の技術者の処遇の問題や社会の精神構造にまで言及できなかった。続く、、、かも。

追記: 2年前に書いたものと大差なかった orz